大依羅神社

- YOSAMI JINJA -

歴史

ご祭神

  • 建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)※第九代開化天皇第四皇子
  • 底筒之男命(そこつつのおのみこと)
  • 中筒之男命(なかつつのおのみこと)
  • 表筒之男命(うわつつのおのみこと)
  • 大巳貴命(おおなむちのみこと)
  • 月讀命(つくよみのみこと)
  • 垂仁天皇(すいにんてんのう)
  • 五十猛命(いそたけるのみこと)
  • 櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)

合祀された旧村社(明治40年)

  • 式内村社 草津大歳大神
  • 式内村社 奴能太比売大神
  • 村社我孫子神社 建速須佐男大神
  • 同八坂神社 奇稲田媛大神
  • 同山之内神社 八柱御子大神
  • 同大山咋神社 大山大神
  • 素盞嗚尊二座

『延喜式神名帳』に記載された官社の中で式内村社 草津大歳大神、式内村社 奴能太比売大神は当社に合祀されましたが、式内社として官社に列せられていた由緒ある神社です。


~由緒 略記~

当社は創建1800有余年を遡る『古事記』・『日本書紀』・『三代実録』・『延喜式』等の国史書に記載されている式内の古社で、当地の豪族であった依羅吾彦一族が、その祖先である第9代開化天皇の第四皇子「建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)」をお祀りしたのが起源とされています。

古代より豪族の治めていたこの地域には、皇室と関係の深い記述として広大な依網池の造営、天皇直轄領である屯倉が設置されていたことが記紀等国史書に残されています。

依網池については『日本書紀』崇神天皇62年10月条,「冬十月、依羅池を造る」推古天皇15年冬条,「依網池を造る。亦国毎に屯倉を置く」とあり、また『古事記』崇神天皇段,「又是の御世に、依網池を作り」、仁徳天皇段にも「又丸邇池(わにのいけ)・依網池を作り」と記されています。

依羅屯倉については『日本書紀』仁徳天皇43年9月条依羅屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕らえて,天皇に奉り、天皇はこれが鷹であることを知られて飼育を命じたとの記載があり、また皇極天皇元年5月条に河内国の依網屯倉にて、百済の王子で日本に亡命してきた翹岐(ぎょうき)らをよんで、「射猟」(うまゆみ)を見せたとそれぞれ記述されています。

このことから依羅池の灌漑による水田を支配し、屯倉を預かっていたとみられています。

神功皇后が新羅征討の際、底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが『日本書紀』に記載(下記※参照)されており、依羅吾彦一族が古代より有力な氏族として、また祭主の役割を『日本書紀』にも残しているところからも、朝廷とも関わる祭祀に深く関係していたと考えられています。


住吉三神の神託

日本書紀・仲哀天皇9年9月10日条  
原文 既而神有誨曰 和魂服玉身而守壽命,荒魂為先鋒而導師船。
即得神教而拜禮之,因以依網吾彥男垂見為祭主。

【意味】

「和魂(にぎみたま)は玉身にしたがって寿命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒となって師船(いくさ)を導かん」

「神の告知により皇后は、依網吾彦男垂見を祭の神主とした」

上記の三神の神託により、その御霊を祀るために依羅吾彦男垂見が神功皇后に任じられ祭祭主を務めたとされています。


御祭神・主祭神

建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)


若倭根子日子大毘々命(わかやまとねこひこおほびびのみこと)
第九代開化天皇の第四皇子。当地の豪族であった依羅吾彦一族の祖神として依羅吾彦男垂見によりお祀りされました。
※毘:本来の字は田偏が左に来る字体


底筒之男命(そこつつのおのみこと)、中筒之男命(なかつつのおのみこと)、表筒之男命(うわつつのおのみこと)
伊邪那岐命が黄泉の国から戻り禊祓いしたときにお生まれになった神様で住吉三神として全国の多くの神社でお祀りされています。また神功皇后が新羅征討の際、底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神の神託により戦勝と航海の無事を祈り当社の創祀である依羅吾彦男垂見が底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三神)を祭る祭主を務めたことが日本書紀に記されていることからも当社と所縁の深い御祭神です。


大巳貴命(おおなむちのみこと)
大己貴命は「大国主命」と呼ばれ、神話の「因幡の白うさぎ」の中で赤裸にされたうさぎを助けられた神さまとしてよく知られている神様です。大己貴命は『古事記』『日本書紀』に多くの神名が伝えられており、日本の国を稲穂が豊かに稔る国に造りあげ、天孫に国をお譲りしたとして多くの崇敬を集めている神様です。


月讀命(つきよみのみこと」)
『古事記』『日本書紀』に登場する「三貴子」と呼ばれる、最も重要な神様の一柱で黄泉の国から戻った伊邪那岐命が、禊をした際に左目を濯がれたときに天照大御神がお生まれになり、右目を濯がれた時に産まれたとされるのが月讀命です。暦に関係の深い月の神様で、潮の干満などや年中行事等生活にまつわる全ての行いや航海安全などの神様とも言われております。


垂仁天皇(すいにんてんのう) 第十一代の天皇 
垂仁天皇は第十代崇神天皇の政策を引き継ぎ、生産力の拡充や、水田開発を熱心に行い、諸国に800余りの池・溝を作られ、また諸外国などとの外交も積極的に行いました。
垂仁天皇は伊勢神宮の建立に際してご尽力をされたと伝わり、垂仁天皇の第4皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が鎮座すべき地を求めてたどり着いた五十鈴の川上(現在の三重県伊勢市)に祠をたて、創祀したことが伊勢神宮の始まりと伝えられています。また日本の国技である相撲は垂仁天皇が起源であるとも伝えられています。


五十猛命(おそたけるのみこと) 
『日本書紀』『先代旧事本紀』に登場する神で、高天原を追われた素戔嗚尊は、子である五十猛神と共に新羅に多くの樹木の種を持って天降りますが、新羅にはとどまらず埴土で船を造り出雲国に到着し、新羅には植えず持ってきた樹木の種を、九州地方から植え始め日本の国土を木々で普く青々とさせたことから、林業の神様として信仰され、また埴土船で海を渡ったとされることにより、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の御神徳もあるとされています。


依羅吾彦一族(よさみのあびこいちぞく)と大依羅神社(おおよさみじんじゃ)

依羅吾彦一族は古代より朝廷と深い関係のある、古い伝統を持つ豪族として有力な地位を維持していたことが数々の国史書に遺されています。第四十五代の聖武天皇天平18年閏9月戊子、正六位上依羅我孫忍麻呂授外從五位下と記載があるのを始めとし、第四十六代の孝謙天皇天平勝宝二年(750年)八月、依羅我孫忍麻呂等に対して宿祢という姓が与えられ、地方豪族として高い五位の位階が与えられていました。


『続日本紀』以下参照
→『続日本紀』天平勝宝2年(750年)8月辛未(16日)条
摂津国住吉郡人外従五位下依羅我孫忍麻呂等五人。賜依羅宿祢姓。神奴意支奈。祝長月等五十三人依羅物忌姓。

  • 第四十八代の称徳天皇神護元年(765年)には摂津備前の封戸十八戸を神封として充て奉られ朝廷の崇敬を受けました。『新抄格勅符』
  • 第五十四代の仁明天皇承和十四年(847年)七月社殿を修造し官社に列せられました。

『続日本後紀』
また『延喜式神名帳』に記載されている明治に合祀された式内村社 草津大歳神社、式内村社 奴能太比売神社も当社と同様に官社として列せられ、鎮座地である大羅(於保輿佐美)郷地域がいかに由緒の古いかを知ることが出来ます。

  • 第五十六代の清和天皇貞観元年(859年)正月、神階従五位下勳八等から従四位下に進められ、同九月に奉幣使を遣わして風雨の災いを祈願させられました。『日本三大実録』
  • 第五十七代の陽成天皇元慶元年(877年)六月に奉幣し雨を祈られ、同三年(879年)六月には勅使を遣わして神財を奉られました。『日本三大実録』
  • 第六十代の醍醐天皇延喜九年(909年)九月正二位を授けられました。『日本書紀』
  • 第六十六代の一条天皇正暦五年(994年)四月中臣氏人を宣命使として奉幣し疫疾火災の除難を祈らせれたとあります。『本朝世紀』

また四時祭(祈年祭・月次祭・神嘗祭・相嘗祭)をはじめ、宮廷祭祀、祈雨祭、また天皇の即位儀礼の一環として斎行されていた八十嶋神祭には摂津国で住吉大社に次ぐ格式の社とされ、座別の幣帛を受ける大社として知られていました。


依羅(よさみ)の名

依羅は依網とも書かれ、ヨサミと訓まれていたことが《倭名抄》にも伝わり、鷹狩の様子が地名と共に書物に残されています。

『日本書記』の仁徳天皇43年九月の条(下記※1参照)に、初見の鳥(異鳥)「倶(く)知(ち)=鷹」を依網屯倉が献上してきたので、渡来人(帰化人)である百済王族・酒(さけの)君(きみ)の意見を求めた天皇はこの鳥を飼いならして諸鳥を捕らせることが出来ることを知り、鷹甘部(たかかいべ)(下記※2参照)を作り飼い馴らわせたといわれています。日本では支配者の狩猟活動は朝廷や貴族の猟として権威の象徴的な意味を持ち、また組織的な軍事訓練としての側面もあったことからも依羅の地域は支配者層に近しい一族が治安維持の役割をも担っていたとみられています。依網はヨセアミ(寄網)からとされ網によって鳥を捕らえることを得意としたことから生じた名前とされ、ヨセアミがヨサミに転じたと考えられています。

※1 『日本書記』の仁徳天皇43年九月の条

《原文》卌三年秋九月庚子朔、依網屯倉阿弭古、捕異鳥、獻於天皇曰「臣、毎張網捕鳥、未曾得是鳥之類。故奇而獻之。」天皇召酒君、示鳥曰「是何鳥矣。」酒君對言「此鳥之類、多在百濟。得馴而能從人、亦捷飛之掠諸鳥。百濟俗號此鳥曰倶知。」是今時鷹也。

《訳文》「即位43年秋9月1日。依網屯倉の阿弭古は初めて見る鳥を捕らえて、天皇に献上して申し上げました。わたくしどもは、いつも網を張り鳥を獲っておりますが、初めて見る鳥を捕獲し、珍しく不思議に思いましたので献上申し上げます。」

天皇は渡来人である酒君(さけのきみ)を呼び、鳥を見せて「これは何という鳥か?」と尋ねたところ酒君は「この鳥は百済に多くおり、馴らすことができれば人に従い、また速く飛び諸々の鳥を捕らえます。百済の人はこの鳥を《倶知(くち)》と呼んでいます。」と答えました。これが今でいう鷹です。

※2 狩猟のための鷹と犬の飼育,調教および放鷹に従事する特殊技能民の集団


依網池と依網屯倉

紀元三世紀、弥生時代の終わり頃、農耕の発達とともに階級社会が形成され始め古墳時代に移っていきました。古墳は階級社会の支配者層出現の象徴とされ、5世紀前後の天皇の陵墓にみられる大型の古墳は大和朝廷が地方豪族を統一・支配し、氏姓社会制度を確立した証だと考えられています。

大依羅神社周辺にあった古代の人工池である依網池は、天皇の命により掘られたと伝わり池を含む一帯に依網屯倉が天皇直轄地として広がっていたとみられることが国史書に記載されており、この地での水田耕作が積極的に進められていったと考えられ大依羅神社が依網池の及ぶ水田、付近一帯の守り神とされていたことを窺い知ることが出来ます。池については『日本書紀』崇神天皇62年10月条,「冬十月、依羅池を造る」推古天皇15年冬条,「依網池を造る。亦国毎に屯倉を置く」《古事記》崇神天皇段「是の御世に、依網池を作り、、、」,仁徳天皇段「依網池作りたまひ、、」,また屯倉については《日本書紀》仁徳天皇43年9月条「依羅屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕らえて,天皇に奉りて、、、」、他皇極天皇元年5月条にも記述がみられます。池の築造年代,詳細は明確には残されておらず,屯倉の起源も明らかではありませんが、5世紀前半(4世紀以前との説もあり)から7世紀初頭にかけてのころ,大王権力によって十万餘坪(50ヘクタールから60ヘクタール)にも及ぶ広大な依網池を造り,農地を開拓して屯倉を設置し,また皇室の狩猟場があったとも推察され、その管理に「依網屯倉阿弭古」が当たったと考えられています。『古事記』には応神天皇御製として歌が載せられています。(日本書紀では仁徳天皇御製とされています)

(読み下し文)水たまる、依網池、堰杙打、河俣江の、菱がらの、刺けく不知に、蒪くり、延けく不知に、吾心し、弥愚にして、今そ悔しき

(訳文)水をたたえる依網池の堰の杭を打つ人が、杭を打ったのも知らずに、蓴菜をたぐり寄せ、手を伸ばしたのも知らずに、私の心はなんと愚かであろうか。今になって悔しさがつのる。

また依羅池周辺は依羅の原と称えられる風光明媚な景色であったと推察され、『万葉集』巻7(施頭歌)の柿本人麻呂の歌に詠み込まれている〈依網の原〉は,依網池周辺の原とされています。(諸説あり)

(原文)青角髪 依網原 人相鴨 石走 淡海縣 物語為

(訳文)依網の原で人に廻り会わないかなあ。淡海県について語ろうと思うのに。


依羅吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)とは

神功皇后の新羅征討に際し、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命の三神の神託として、「和魂は玉身にしたがって寿命を守り、荒魂は先鋒となって師船を導かん」と告げられたとあり、その三神の御霊を祀るために祭神主と命じられたのが依羅吾彦男垂見とされています。神功皇后の新羅征討の直前に住吉三神をお祀りするということは、古代において朝廷と密接な関係にあり、支配者は祭政一致の観念から同時に神を祀るものと考えていたことからも、依羅吾彦男垂見の一族が有力な豪族として朝廷と深い関係を維持していたことが窺われます。新羅征討において重要な役割を担っていた依羅吾彦男垂見を含む依羅吾彦一族が当時朝廷の中で有力な地位を占めていたことが、国史書に記されていることは特筆すべきことであります。その依羅吾彦男垂見が新羅征討より無事帰還後に感謝の思いで祖先と底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命三神を合わせて奉斎したことが当社大依羅神社の創祀と伝えられており、新羅征討の際祭神主としての役割はもとより帰還後に祖神を当社大依羅神社にお祀りすることにより祖神崇拝の重要性を後世に伝えるという大きな役割をされたことは神社の信仰においても根本をなす偉業であったと考えられます。

社殿

現社殿は昭和に復興したもので、以前の社殿は幾度の火災により焼失されましたがその度に住民の篤い崇敬により復興してきました。記録として残るものに万治二年(1659年)火災による焼失の際、付近の住民の協力で再興された社殿は本殿・幣殿・拝殿から構成され、そのうち本殿は流造で唐破風を付し、屋根は檜皮葺でしたが、昭和四十四年九月二十九日本殿、幣殿,拝殿、全焼し、昭和四十六年十月三日境内北側南向きより西側東向きに現社殿として移転復興されました。


摂社・末社

天照大御神

皇室の御祖神であり日本の総氏神様。伊弉諾尊が黄泉の国から戻られたとき、穢れを洗い流した際、左目を洗ったときにお生まれになられた神様です。伊弉諾尊自らが生んだ諸神の中で最も貴いとした三貴子(天照大御神を含む三姉弟の神)の中で最初にお生まれになられた神様です。天照大神を祀る神社を 神明神社 といい全国各地でお祀りされていますが、総本社である三重県の伊勢神宮の内宮(皇大神宮)の御祭神としてお祀りされ全国からの篤い崇敬をあつめています。

豊受大神

天照大御神の食事を司る穀物と食物の神様丹波国から現在の地にお迎えされました。
※伊勢神宮 外宮の御祭神であり稲作、五穀、食物全般の豊穣を司る食物の神として知られています。外宮にある御饌殿では毎日朝と夕の二度、天照大御神、相殿神及び別宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています。

道祖神社

八衢比古命(やちまたひこのみこと)・八衢比売命(やちまたひめのみこと)・久那土神(くなどのかみ)をお祀りしています(大字苅田字苅田 無格社より合併)。古事記では伊弉諾尊が黄泉の国から戻り禊をしたときに生まれた神と伝えられています。古来道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ道を守る神と考えられています。

旧神楽殿

息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)・神功皇后をお祀りしています。第14代仲哀天皇の皇后 神功皇后としてまた第十五代応神天皇の母と知られ新羅征討の際には、当社創祀である依羅吾彦男垂見が底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三神)を祭る祭主を務めたという所縁深い御祭神です。また神功皇后は、新羅征討の際応神天皇を身ごもっておられるお身体で新羅征討を果たし、帰国後無事に出産されたことから、勝運の神、安産・子育ての女神として篤く信仰されています。

櫛明玉命

櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)をお祀りしています。別名タマノヤノミコトとも呼ばれる3種の神器である勾玉を司る神です。勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、先史・古代の日本における装身具の一つである。祭祀にも用いられたと言われています。語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。また『魏志倭人伝』には「句珠(くしゅ)」の表記があります。

天神社

菅原道真公をお祀りしています。神童と称された菅原道真公は、遣唐使を廃止するなど朝廷の中心人物として活躍し、右大臣に任命されましたが大宰府へ左遷されたのち失意のうちに亡くなりました。学問に秀でていたことから学問の神として祀られ多くの崇敬を集めています。菅原道真公は梅が好きだったと伝えられ、当社の天神社の周りにも梅の木が植えられています。  

新神楽殿

天之鈿女命(あめのうずめのみこと)をお祀りしています。天之鈿女命は天照大御神が天岩戸にお隠れになった際に活躍された女神さまで、その様子は『古事記』・『日本書紀』等の国史書に記載されています。天照大御神が天岩戸に隠れられ世界が暗闇になったとき、天之鈿女命が踊りを踊られたことがきっかけとなり天岩戸から天照大御神が外にお出ましになったと伝わり、この故実より諸芸に精通している芸能の神様として特に女性からの信仰が篤い神様として知られています。

龍神社

龍大神・龍神井を祀っています。龍神井には、依網池に住む竜蛇が農夫に対して池に沈む鉄を除いてくれるよう頼み、その礼として井戸の水を供えて祈れば降雨を約束したという伝承があり、実際にかつて旱魃の際には祈雨祈願が行われていたと伝えられています。

天神社前石碑

藤原定家の歌が刻まれた歌碑。

「君が代は依羅の杜のとことはに松と杉とや千たび栄えむ」

これは『拾遺愚草』に「依網の祠官の求子に歌ふべき歌をこふによりてよみてつかはしける」とあり、またこの石には「祈 安産」と彫られていることから「求子」信仰の存在していたことが窺われます(石碑年代等詳細不明)

稲荷社

宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)をお祀りしています。全国に稲荷社として多くお祀りされている神様。『古事記』・『日本書紀』に登場する女神として知られ、穀物、食物の神として崇敬され、現在は商売の神様としても篤く信仰されています。

白龍大神

創祀年代不明ですが古代より神聖な生き物として信仰の篤い白蛇の神様であるとされています。

イト大神

創祀年代不明ですが地域の方々による信仰の篤い神様です。

庭井の跡

かつて境内北側に「庭井」と称する井戸がありました。『摂津名所図会』には次のように記されています。「依羅井は神前にあり、清潔にして寒暑に涸れず、炎暑に田園早天の時、此井を汲んで神供とす、忽雨降りて潤澤す」現在は往時を偲ぶ石碑が立っています。

依網池跡

依網池は十万坪余りの大池でありましたが、大和川の付け替え工事により三分の一ほどの面積になり、その後も田圃への転用等で埋め立てられ今では石碑を残すのみとなっています。


龍神井についての伝説

境内西南の一隅に、龍神井と称する雨乞井がある。里傳によれば、依羅池中に龍蛇住み、或日河内の一農夫池の北堤を通行中、美女に呼びとめられ、我が身は池中の龍神なるに、先頃鐵を沈めるものあり、これに触れて傷を受けた故、池中の鐵を取り除いて欲しいと懇願、農夫は哀れに感じたが泳ぎを知らぬ故、池底に潜ることはでぎぬと述ベて行き過ぎようとしたところ、婦人はさらに呼びとめ、自分の力で水辺まで波をもつて打ち出す故、水辺に現はれたならば取り除かれよと云つて水底に消え失せた。待つほどに俄かに天地晦瞑、暴風起り、波は池水を捲いて天を衝き、恐ろしい状を呈したが、やがて風波鎭まり、天地晴朗に復したと思うと婦人再び現れ来て、あれなる鉄が自分の申していたところのもの、持去つて再び池中に入らぬやうにしてはしいと云い、難儀を救つてくれた恩に対し、萬の幸を得させよう、水乏しきときは此の井水を汲み大神の御前に供へて甘雨を祈れば必ず水を得させようと云つて清水の井戸に入つた。農夫は其の鐵を見るに農具の萬鍬であつたといふ。爾來旱天に際しては此の井を開いて大依羅神社に祈雨祭を行へば必ず甘雨沛然として至るといひ、近年に至る迄、旱魃に際しては村民集つて此の井を開き、七日間参龍祈雨を行ふを例とした。

【所在地】大阪市住吉区庭井二丁目十八番十六号
【創建年月日】約1800有余年を遡る御創祀と伝えられています。
【社殿復興】昭和四十四年九月二十九日本殿、幣殿,拝殿、全焼するも、昭和四十六年十月三日境内北側南向きより西側東向きに移転復興しました。
【氏子地域】浅香町、我孫子町、苅田町、杉本町、庭井町、山之内町の旧依羅村

06-6691-3315